概要

普段から考えることが好きでよく妄想にふけるのですが、考えたことを覚えていられるほど優秀な頭を持っていなかったのでここで整理して残すことにしようと思い、ブログをはじめました。そんな理由により、備忘録的に用いることが多々あります。傍目から見てなんだこれはと思われるような、思考の断片が放っぽり出されている状態が散見されますが、そういうのは気にしないでください。僕もちょっと恥ずかしいので。気が向いたらちゃんと記事にします。気が向かないまま放っぽり出すことももちろんたくさんあります。また同じ理由により、編集を多用します。言ってることがコロコロ変わります。人生の結論みたいなものを書いてる気はさらさらないので、これを書いてる時点ではこう思ってたくらいに受け取ってください。

風呂敷を広げるのが好きです。持論から持論をふわりふわりと展開していきます。往々にしてそれらは、着陸せずにネットの世界に拡散していきます。このようにして僕のブログには、結論の出ないただの議論しか書かれていない記事が氾濫していきます。結論を出すことではなく議論をすることが好きなので仕方ありません。

お分かりのように主語を落として文を書く癖があります。読みづらくて美しくない日本語なのは自覚してますが直す気が無いので読める方だけぜひ読んでいってください。面白い文を書くように努力はしているつもりです。

 

管理人:ふかしん

某オケで某楽器を演奏しています。

「藪の中」からオーケストラへ

芥川龍之介の「藪の中」という小説がある。藪の中で人が死んでいるのが見つかる。検非違使は死んだ男の妻と、現場の近くで捕らえられた盗人と、死んだ男本人の霊から証言を得るが、3人とも状況証拠とは辻褄が合いつつ、それぞれがストーリーは全く異なった様に証言する。真相はまさに「藪の中」なのである。

この物語は、人間がその外界を捉えようとする時の曖昧さを的確に表現している。人間が事実と対面しそれを理解しようとする時、自分の頭の中にある論理、法則に当てはめてそれをかみ砕こうと試みる。それは本人がそれまでの人生の中で体得してきた経験則に基づいており、人によって異なる。真実に到達できることはない。「藪の中」はその違いを表出させ読者にこう問いかける。「人間が何かを知ろうとするときに、本当のことは分からないんじゃないか、という疑いです(養老孟司)」。

誰もがその人の頭の中に構築された論理体系に現実を落とし込んでそれを理解しようとする。それらは人によって異なる。どれもが正解とも言えるし、どれもが正解には至らないとも言える。正解、不正解で測ろうとするのはナンセンスである。誰かの事実のとらえ方に対して、自分の事実のとらえ方と比較してそれは正解だ、それは間違いだと主張する事に本質的な意味はない。自分の意見が正しい、真実だと主張することも、それが真実に到達していることはありえぬゆえあまり意味はない。

しかし、科学になると話が変わる。事実は追求していける、本当に起こったことは一つしかないはずだという姿勢が科学的な姿勢である。ここでは自分の主張に絶対的な説得性を持たせることに力が注がれる。

芸術にしても同じような姿勢が求められるのかもしれない。美しいものは追求していける。その先には、答えといえるような真理が存在しているのかもしれない。それを求め続けるのが芸術的な姿勢であり、そこに他人の意見を介在させる余地はない、という立場に立つこともできるのかもしれない。

その点で音楽は難しい。絵画や文学なら、一人で追求することが比較的容易だが音楽は多人数で表現されることが多い。音楽という真理のとらえ方は人によって異なる。どれもが正解であるしどれもが正解ではない。異なる考えを持った者たちで一つの真理を追い求めてゆかないといけない。

「世の中には独裁が必要なものが二つある。軍隊と音楽である(カラヤン)」。プロフェッショナルは矛盾した状態にこのような素晴らしい解を与えている。独裁こそオーケストラが舵をとっていくための理想的な形態であり、その世界の中で指揮者の果たす役割は神と等しい。即ち、人間の到達することのできない真理の役割である。

が、私たちはプロでないのでこのような打開策では勝負できない。芸術に対する姿勢も、絶対的な真理を追い求めることに憧れつつ、どこかで折り合いをつけないといけない。ただ真理を追い求めるだけの姿勢が、学生オケの健全な姿ではない。

そこには色々な都合が存在する。

マチュアの音楽作りは独裁とは対極的である。そこに神はいない。ここでは合議制が健全な姿としてあらわれる。異なる価値観をみとめ、皆が同じ方向を向けるような音楽を模索することになる。

構成員が4年単位で移り変わるため、何かにつけて一から作り直すという営みを何度も繰り返さないといけない。

多様な人々が、様々な思惑をもってオケに向かう。自分の人生設計の中でどのようにオケと付き合うかが多様化してきている。

異なる価値観、多様な思惑の渦巻く中でオケがまとまるには、ある人にとっては意味がわからないというやり方も必要になり得る。何回も一から作り直すという行為の過程では、遠回りと思えるようなやり方も経ていかないといけない。

 すべての人が、各々の頭の中の論理体系にしっくりとはまるような方向で音楽を作ることはできないだろう。

とは言え、諦めてしまうわけにはいかない。そういった諸々の都合を乗り越え、皆でどこまで(芸術的かどうかに関わらず何か一つの)真理に近付けるか挑戦するというところが、学生オケの一つの大きな醍醐味といえるからである。

どこまで追いかけても到達することのないものを追いかけ続けるのは容易ではない。

神から見たら、人間の考えることは何でも間違いである。しかしそこに虚しさを感じてしまったら、人生に幸せはなくなってしまうと思う。

心に留めておきたいことば

たとえ一言でも、せっかく思い付いたのがすぐ忘れるので、メモります。自分でひねり出した言葉もありどこかで見た言葉の引用もあり。下書きで追加していって貯まったら記事にします。

 

 

 

この世には、勝利よりも勝ち誇るに値する敗北がある。

ーーミシェル・ド・モンテーニュ

 

 

無意識の意識化

 

 

物知りで哲学的なキャラクターが登場する物語

悩んでいる主人公に対して、簡潔だが意味深な言葉をくれる

たとえばムーミン

 

 

秘密が人を強くする

 

 

正解不正解の二元論やめようぜ

トレーニング方法論

僕は114th期間の序盤、旋律楽器にはあえて指示を出さずに自由にやらせた。代わりに伴奏で鳴っている音の雰囲気や、リズム感にこだわった。譜読みの棒読み状態に近い音楽からその曲の持っている性格が少しずつ顔を出してきて、ゆるやかに方向性が生まれる。そこまでがいわば曲作りの前提条件のようなもので、うまくいけばここからの中盤戦はやりたい放題な期間に入る。表現したいことがどんどん伸ばせるし指示に対してのレスポンスも良くなる。(逆に、トレーナーの指示に対してオケの反応がよくない時というのはまだ序盤を抜けてない段階であることが多い。)ここではそうやって音楽を拡げていって、終盤はまとめの時期である。伸びすぎたとこは均して、足りない所を補う。大げさに表現しすぎて流れが悪い場所などを修正する。

114終えて

たいそうな振り返りをしそうなタイトルを付けておいてつまらないことしか書かない。

 

 

 

114thにおいて、自分の中ではっきりと明文化していたわけではないが、達成したいと思っていたタスクや、実際にオケを振る中で試してみたいと思っていた構想などがたくさんある。忘れたものもたくさんある。忘れてないものは今のうちに書きだしておくし、忘れたものも思い出したときに書きたい。

 

明文化していた目標ももちろんあり、そういうのは総会とか技術委員会とか、毎tutti後とか打ち上げの言葉とかでそこそこアウトプットできていたと思うので、これから書くのはそういう大きいスケールに満たないような、枝葉的な内容にすぎない。

 

 

さて。

まず、旋律優位が過ぎていたように思うオケのバランスを整えて、伴奏の仕事を増やした。

旋律が率先して音楽を作っていくというのは、オケでは効率が良くないと思う(もちろんそういう場所もある。今回ならbrahmsの4楽章フルートソロの箇所とか)。と言い切るのはさすがに語弊があるが、伴奏だけで音楽の骨格ができていて、旋律担当は弾けば勝手にそれっぽく聞こえるという環境が自分は理想的だと思う。そうすると、旋律は細かい音程、より繊細な抑揚のつけ方に力を注ぐことができるようになる。

僕は114th期間の序盤、旋律楽器にはあえて指示を出さずに自由にやらせた。代わりに伴奏で鳴っている音の雰囲気や、リズム感にこだわった。そうやって過ごした結果、指示はしていないのにいつもよりも抑揚のある美しい旋律ができあがった。と思う。このあたりは少し大雑把すぎる解説をしてしまったかもしれないので、トレーナーのトレーニング方法論のような記事をまた書いてくわしく話したい。

伴奏の仕事を増やした、ということについては、「スコアを読んで勉強するのは低音~」的な名前の記事でこれもまた詳しく書いてあるはず。

 

 

次に、オケで練習している時にその場に流れている、ある種の呼吸感のようなものを作れるように努力した。

ある程度長くオケ等をやっている人は何となく感じたことがあると思う。オケが楽器を構えた瞬間に、「あ、今から出る音はいい音だな」と感じること、または「今から出る音は絶対合わない」と直感することである。言葉では説明しづらいものだが、とにかく楽器を構える動作を見るだけで、今から鳴る音がどんなものか大雑把な想像がつくようになる。

さらに注意深く観察しながらオケを続けていくと、皆がどんな雰囲気で楽器を構えた時がいい音が出る瞬間なのか、何となく分かってくると思う。ここまでくれば、かなり質のいい練習が期待できるようになる。毎回いい音が出るという分かりやすいメリットの上に、音楽の再現性が高くなるという素晴らしいメリットが付いてくる。毎回同じクオリティで演奏できるというのはトレーナーにとっては非常にありがたいことで、自分の予定していた通りに練習を進めることができる。逆に「いや前回は弾けてたやんけ!」みたいなことになると、オケは混乱するし、トレーナーも何を言えばいいのやら困惑する。そういう日は、往々にして練習の質が低下してしまうことが多い。

ここで気になるのはもちろん、「じゃあ、そのいい音が出るときの雰囲気ってどんな雰囲気なのよ?」という疑問である。雰囲気なので、非常に言葉にしづらいものであるが、自分の中での論理を極力表現できるように努力する。

最初に「呼吸感」という言葉で表したように、「呼吸が合っている時」というのが大事になってくる。ここで言う呼吸とは、単に吸ったり吐いたりする息のみを指しているわけではない。相手の行動に合わせて自分の行動を沿わせていくような、そういう仕草のことを指す。将棋用語でも「呼吸を合わせる」というのがあり、相手が攻撃の手をゆるめて王様の囲いに一手使ったら自分も一手囲う、などのやり取りを表す。「棋は対話なり」と言ったえらい人もいたらしいけど、この二つは僕の好きな将棋用語でもある。音楽でも同じようなことが言えますね。

話が逸れました。

もう一つ大事な条件として、いいルーチンをもって演奏に入るというのがある。演奏家というのは一種の職人仕事なので、始めから終わりまで洗練された動作をこなすためのルーチン(いわゆる「五郎丸ポーズ」みたいなやつ)が大事になってくる。楽器を構えるという動作がこのルーチンにあたるといっていい。演奏家の有名なルーチンとしてはアインザッツというのがあって、音を出すタイミングを合わせるためにブレスをしながら音を出す準備動作をする。これが直接的なルーチンなのだが、その前の楽器を構えるところからルーチンに入れてしまうというのが分かりやすくて良いと思う。五郎丸で言うなら、楽器を構えるところが五郎丸ポーズで、アインザッツが実際に蹴るために助走をつけだしたところと置き換えられるだろうか。

さらにもう一つ大事なのが(くどくてすいません)、集団心理である。別に集団心理に詳しいわけではないけれども、経験的に理解できることはたくさんある。集団で何かをするときは無意識的に周りに同調した動きをすることが多いということである。同調するのもまさに無意識的な動作が多くて、姿勢を直したり、空咳をしたり伸びをしたりなどの些細な所作があたる。学校集会などで校長先生の話を聞いているとき、誰かがもぞもぞと座り直すと皆一斉に座り直すような瞬間があると思う。まああんなイメージである。

つまり、

自分が率先して良い呼吸感で楽器を構えるルーチンに入ることで、皆が無意識的に呼吸を合わせて良い準備に入ってくれるというのが、長々としゃべくって言いたかった結論である。最初に言えよと。僕もそう思います。本当にすいません。

 

 

 

間違った道に進まないように道筋を教えてあげること、これも期間中気を遣っていたことである。

やはり一年以上年上の人間がいるというメリットは、自分が一度通った道を後輩が通っていくのを手助けできるということだと思う。これもまたたいへんに当たり前なことだが、自分が自分たちの代で経験して後悔したことはさせなければ良いし、得したと思ったことは再現させれば良い。このまま進むと悪い流れになるというような予兆をできるだけ敏感にキャッチして、より楽に音楽作りができる道に導いてあげるよう言葉を選んだ。

書いていて本当に当たり前なことを言っているなと頭を抱えているが、これがなかなかどうして難しくて、人は毎年後悔していることを次の年も繰り返すのである。また将棋の話に脱線するが、対局中に相手の指し手を見て、「この手は前にも指されて負けたことがあるな」と思い出すことはできるのだが、そこからどう指せば勝ちだったのかは思い出せない。要は前に負けた時の反省が不十分できちんと戦術を練り直すことができていないのである。後悔したときの反省を十二分にして、それを頭に染み付けて、同じ轍を踏みかけている時にしっかり思い出すということができる人は強い。そうなれるように4年間努力してきたつもりだ。

 

 

さらに、実はこれが心の奥で密かに一番強く願っていたことなのだが、114thでは名大オケの全員が楽しんで音楽に取り組めるように努力した。

全員が、というところに強調の点を付けたいのだがブログの編集に慣れていなくてやり方が分からない。

名大オケに来る人もかなり多様になったと思う。10年前(自分がいた訳ではないので伝聞だが)と比べて男女比も変わり、他大生も増え、大学でオケをやる目的というのが多様になった。今は皆んな留学もするし、インターンに行かないと就職できないし、とにかくやることが増えているのだと思う。やることが増えたということはそれだけお金も必要になるからバイトもたくさんする。それぞれの団員が、オケに割ける時間、お金、モチベーションの総量は減ってきているのだと思う。そんな現状と、伝統を重んじる名大オケの昔ながらのシステムとにギャップが生じていて、団員にストレスがかかっているということを感じてきた。顔で分かる。定演のDVDに映る顔は皆一様に唇を固く引き締めて眉をひそめ、冷たい目をしている。真剣な顔とも言えるし、楽しくなさそうな顔とも言える。楽しくないから目線は下がる。体のベクトルは内向きになって、肩をせばめて演奏する。そうなると体はこわばるからいっそう上手く弾けない。もっと楽しくなくなる。音楽がもっと内向的になっていく。

システム自体を変えていかないと破綻するというのが僕の思想の出発点であった。

64年続いているオケである。膨大な積み重ねの末に成っているシステムは頑丈で重たい。しかし、器がしっかりしていても中身の形と合っていないなら仕方がない。64年の重みに敬意を払いつつ、現状にそぐわないと思うものはあっさり変えて改革しようと思った。捨てるべきものは捨てて、とっておくべきものは大事にするようにした。もし後に後悔したらそれは十二分に反省して、繰り返さないように頭に染み付けていけば良いのだ。

多様な思惑をもって音楽に向かう人が集まる中で、どのような人も楽しいと思えるような環境を作りたいというコンセプトでシステムを弄った。有り体に言えば、楽しそうな顔で演奏してくれる人が一人でも増えるように努力した。具体的にどういう風に弄ったのかは、細かく言おうとすると難しいし何を言われるか分からないからあえて何も書きません。けっこう明文化もしてきたしね。

それらは、本当に上手くいったかどうかは分からない。でも、僕の色紙にこんなことを書いてくれた団員がいた。名大オケの本番で114thが一番楽しかった、と。僕個人的にはそれで大満足で、その言葉が欲しくて頑張ったから頑張った甲斐があった。

 

 

最後に。

今年も新歓でたくさんの一年生が入ってきたが、高校時代から、あるいはそれよりずっと前から名大オケに憧れていてここに来たと言う一年生の言葉を聞いて感動した。素晴らしい団体なのだと改めて実感した。十年後も、同じようなことを言って入ってきてくれる人がいる団でありたいと思った。それは、団の一つの目標としてとても素敵なものであるのかもしれない。

 

スコアを読んで勉強するのは低音楽器の役目だと思う。

 

 

パート譜を見るまでもないけど、高音楽器の譜面は低音より黒くて、複雑で、旋律の負担が多い。低音の譜面は白くて単純で、リズムや和音を担当していることが多い。

 

周波数が高い音は低い音に比べて鮮明に聞こえるのだから、当たり前のこととも言える。旋律は際立って聞こえるように高音にあてがわれる。だからといってリズムや和音が大切でないかというとそうではない。低い音は鮮明でなく、こもって聞こえる。ということは、その音が聞き手に与える印象は聞き手の想像力によって補完される余地が大きい、ということでもある。リズム感や和声感はそういう所に一つの存在意義がある。ある種の雰囲気作りとも言い換えられるかもしれない。僕は低音楽器の奏者なので、その想像力の補完の力に頼って演奏している。悪く言えばうまくごまかしながら弾いているということでもあるし、良く言えば聞く人の想像力をかきたたせるように意識して演奏をしているとも言える。

 

さて、オケの民の日常会話ではしばしば、「バイオリンは楽譜の負担が大きい」「低音は楽」と言っている風景がみられる。

 

それは合っていると思う。低音に想像力の補完の余地があるとすれば、高音はその逆で、出した音の印象が直接聞き手に伝わる。それだけ演奏者の責任が大きいと言っていいと思う。低音奏者の僕からすれば、「俺らもそれなりに頑張ってるんじゃ」と言いたくなるところではあるが、とにかく高音の人は自分の楽器への責任感が強い。尊敬すべきだと思う。

 

上のような会話を耳にしたとき、低音の奏者は彼らに敬意を示すと同時に、実は反省しなければならない部分があると、僕は思う。

端的に言えば、高音の奏者が低音に比べて負担が大きいと感じている時は、それが低音の怠慢によるものである可能性があるということである。

 

低音楽器はこもった鮮明でない音を出すことで、聞き手に想像力をかきたたせると書いた。それは観客にとってだけではなく、同じ舞台上にいる他の奏者にも同類の影響を与えている。

楽器のピラミッドの図を想像してみてほしい。弦楽器なら~。

低音が良い形をした、しかし輪郭の不明瞭な