「藪の中」からオーケストラへ

芥川龍之介の「藪の中」という小説がある。藪の中で人が死んでいるのが見つかる。検非違使は死んだ男の妻と、現場の近くで捕らえられた盗人と、死んだ男本人の霊から証言を得るが、3人とも状況証拠とは辻褄が合いつつ、それぞれがストーリーは全く異なった様に証言する。真相はまさに「藪の中」なのである。

この物語は、人間がその外界を捉えようとする時の曖昧さを的確に表現している。人間が事実と対面しそれを理解しようとする時、自分の頭の中にある論理、法則に当てはめてそれをかみ砕こうと試みる。それは本人がそれまでの人生の中で体得してきた経験則に基づいており、人によって異なる。真実に到達できることはない。「藪の中」はその違いを表出させ読者にこう問いかける。「人間が何かを知ろうとするときに、本当のことは分からないんじゃないか、という疑いです(養老孟司)」。

誰もがその人の頭の中に構築された論理体系に現実を落とし込んでそれを理解しようとする。それらは人によって異なる。どれもが正解とも言えるし、どれもが正解には至らないとも言える。正解、不正解で測ろうとするのはナンセンスである。誰かの事実のとらえ方に対して、自分の事実のとらえ方と比較してそれは正解だ、それは間違いだと主張する事に本質的な意味はない。自分の意見が正しい、真実だと主張することも、それが真実に到達していることはありえぬゆえあまり意味はない。

しかし、科学になると話が変わる。事実は追求していける、本当に起こったことは一つしかないはずだという姿勢が科学的な姿勢である。ここでは自分の主張に絶対的な説得性を持たせることに力が注がれる。

芸術にしても同じような姿勢が求められるのかもしれない。美しいものは追求していける。その先には、答えといえるような真理が存在しているのかもしれない。それを求め続けるのが芸術的な姿勢であり、そこに他人の意見を介在させる余地はない、という立場に立つこともできるのかもしれない。

その点で音楽は難しい。絵画や文学なら、一人で追求することが比較的容易だが音楽は多人数で表現されることが多い。音楽という真理のとらえ方は人によって異なる。どれもが正解であるしどれもが正解ではない。異なる考えを持った者たちで一つの真理を追い求めてゆかないといけない。

「世の中には独裁が必要なものが二つある。軍隊と音楽である(カラヤン)」。プロフェッショナルは矛盾した状態にこのような素晴らしい解を与えている。独裁こそオーケストラが舵をとっていくための理想的な形態であり、その世界の中で指揮者の果たす役割は神と等しい。即ち、人間の到達することのできない真理の役割である。

が、私たちはプロでないのでこのような打開策では勝負できない。芸術に対する姿勢も、絶対的な真理を追い求めることに憧れつつ、どこかで折り合いをつけないといけない。ただ真理を追い求めるだけの姿勢が、学生オケの健全な姿ではない。

そこには色々な都合が存在する。

マチュアの音楽作りは独裁とは対極的である。そこに神はいない。ここでは合議制が健全な姿としてあらわれる。異なる価値観をみとめ、皆が同じ方向を向けるような音楽を模索することになる。

構成員が4年単位で移り変わるため、何かにつけて一から作り直すという営みを何度も繰り返さないといけない。

多様な人々が、様々な思惑をもってオケに向かう。自分の人生設計の中でどのようにオケと付き合うかが多様化してきている。

異なる価値観、多様な思惑の渦巻く中でオケがまとまるには、ある人にとっては意味がわからないというやり方も必要になり得る。何回も一から作り直すという行為の過程では、遠回りと思えるようなやり方も経ていかないといけない。

 すべての人が、各々の頭の中の論理体系にしっくりとはまるような方向で音楽を作ることはできないだろう。

とは言え、諦めてしまうわけにはいかない。そういった諸々の都合を乗り越え、皆でどこまで(芸術的かどうかに関わらず何か一つの)真理に近付けるか挑戦するというところが、学生オケの一つの大きな醍醐味といえるからである。

どこまで追いかけても到達することのないものを追いかけ続けるのは容易ではない。

神から見たら、人間の考えることは何でも間違いである。しかしそこに虚しさを感じてしまったら、人生に幸せはなくなってしまうと思う。